ため息をついたルードが投げやりな口調で言った。
「まあいい。意識が戻ったのだから、我々は先に行く。あてのない旅ではあるが、他人のために足止めはごめんだからな」
「ルード。彼は目を覚ましたばかりよ。もう少しだけ助けてあげましょう」
ニアが言うと、ルードはあからさまに舌打ちをした。なんだこいつ、性格悪いな。
「そういえば、名前を聞いていなかったわね」
「ニア、よせ。名など聞けば余計な縁ができる。今の我らにそんなものを抱える余裕があるか?」
「縁ならもう十分にできているわ。今さらよ。……それで、あなたの名前は?」
俺の名は――
「ユウ、だ」
何も思い出せないくせに、名前だけはするりと出てきた。
それともYOUのユーだろうか。 分からんが、ユウは意外に馴染みがいい。本当に俺の名前なのかもしれない。「ユウ。もう少し眠るといいわ。私たちが火の番をするから、安心して」
ニアがにっこりと微笑んだ。
横ではルードが苦い顔をしている。分からないことだらけで不安だったが、体は冷えて疲れ切っている。
返事をするのもままならず、俺は再び眠りに落ちた。 再び目覚めると、体はずいぶんマシになっていた。 焚き火のそばには、相変わらずニアとルード。二人は小声で何事か話している。 俺が目を開けたのに気づいて、ルードが言った。「顔色は良くなったな。起き上がれるか?」
「ああ、大丈夫だ」
体のあちこちが痛んだけれど、俺は立ち上がった。
ぐっと手足を伸ばす。洞窟の天井は案外高くて、俺が手を伸ばしてもぶつかったりしなかった。 深呼吸をすると、腹がぐうと鳴った。 いいことだ。空腹を感じるのは、正常なことだからな。「ほら、飯だ。食え」
ルードが投げて寄越したのは……生肉である。
生肉は地面を転がり、土で汚れている。 いや生肉って。病み上がりの怪我人に与えるか普通?生肉を手に取って俺は困った。困ったが、腹はぐうぐう鳴っている。
仕方なく肉を焚き火であぶってみる。 串もなくあぶったものだから手が熱い。「うおっアチッ」
肉の端に火がついて、ついでに俺の手もやけどしそうになった。こりゃだめだ。
仕方ない、生のままだがかじってみよう。 俺は口を開けて肉にかぶりつく。「ォエェェッ」
で、普通に吐いた。
胃の中が空っぽだったので胃液を吐いてしまった。 当たり前だろう、弱りきった体に生肉だぞ? せめて焼いてから渡してくれよ。 この理不尽さ、先々が心配になる。「大丈夫?」
ニアが首を振りながらマグカップをくれた。中身は白湯だ。
俺はかじりかけの肉を置いて湯を飲む。 胃液を吐いたせいで口の中が酸っぱかったので、助かった。「さて、それじゃあ最後の親切といくか」
ルードが言ってまた何かを投げて寄越した。
ぼやけた視界に飛び込んできたのは、エリーゼの心配そうな顔だった。「ご主人様、良かった……。目を覚ましてくれて」 気がつけば、俺はベッドに寝かされていた。 どうやらエリーゼがやってくれたらしい。「お体はいかがですか? どこか痛いところは?」「大丈夫だ。……ニアとルードは?」 部屋の中に彼らの姿はない。 エリーゼは首を振った。「わたしが気づいたときは、あの人たちはもういませんでした。ご主人様だけが床に倒れていて」「そっか」 俺は体を起こした。 別にめまいもしないし、痛みもない。 動揺していたせいで攻撃をまともに食らってしまったが、俺だって超一流の腕前なんだ。 ただルードもかなりの手練れだな、あれは。「何があったのですか?」 エリーゼの問いかけに、俺はちょっとだけ考えてから言った。「あの二人の触れてほしくない部分まで、無遠慮に踏み込んでしまって。彼らは俺の命の恩人だが、向こうにとって俺はただの行きずりの相手だ。馴れ馴れしくしすぎて怒らせてしまった」 エリーゼは何も言わない。 俺の嘘を見抜いているだろうが、心遣いがありがたかった。「はあ……」 それにしても予想外の話を聞いてしまった。正直、まだ心の整理がつかない。 船の事故で死んでしまった、十五歳の少年。俺は彼の名前すら知らない。 どうやって償えばいいんだろう。 けれどニアの望みを手伝ってやることはできない。 だいたい、のぞみの部屋だって本当かどうか分からないのだ。 そんなあやふやな状態でヨミの剣を強奪するなど、パルティアを敵に回して大変なことになってしまう。 ニアとルードのことは忘れて、今まで通り過ごす。 それ以外に取るべき道は見えない。 俺は結局、無力だった。 虚しさがこみ上げてくる。「……今日はもう休もうか」「はい」 ニアとルードのために取った部屋が無駄になっ
ニアはゆっくり続ける。「わたしたちが海岸であなたを見つけたとき、あなたは既に息絶えていた。森の民だということは、すぐに分かったわ。わたしはもう、誰一人として同胞を失いたくなくて――」 彼女は胸に手を当てた。 いつの間にかニアの体が淡い緑光に包まれている。「エーテルライトの力を使った。莫大な魔力を屍体に注いで、命を呼び戻した」 ――違う。とっさにそう思った。 森の民として生きていた十五歳の少年は、あのとき死んでしまった。 彼の命が呼び戻されたんじゃない。 あやふやな前世の記憶を持った『俺』がたまたま体に入り込んでしまったんだ。 俺が覚えているのは、船が海に沈みゆく場面。 あれが本来の『彼』としての最後の記憶だろう。 肉体に刻まれたわずかな記憶だけを引き継いで、無関係の俺が体を乗っ取ってしまった。 そう考えると急に納得がいった。 十五歳時点でオール1というステータスの不自然さも。 森の民の生まれでありながら魔法の才能が伸びなかったのも。 全ては異世界人である『俺』のせいなのだろう。「俺は止めろと言ったんだがな」 吐き捨てるような口調でルードが言う。「今のエーテルライトに宿る魔力は、多くが森の民の魂に由来するもの。戦争で虐殺され、炎に巻かれて死んだ同胞たちの魂を魔力として保存した。お前の蘇生に同胞の魂が何人分、使われたと思う?」 俺は答えない。答えられるはずがない。 ニアは首を振った。「それはいいの。エーテルライトの中の人々に問いかけて、あなたを蘇らせるのに同意してくれた人の力を使ったから。中にはあなたの親族もいたわ。みんな若いあなたを心配していた」 若い。その言葉が引っかかった。 改めてニアを見る。 彼女は少女の姿をしている。せいぜい十三、四歳の出会ったときと変わらない姿を。 森の民は長寿の種族。 けれど子供の成長は他種族と変わらないと、魔法都市国家のディアドラが言っていた。 俺自身、十五歳の
けれど俺は思ったのだ。 六年間この大陸を放浪していたというニアとルード。 その旅路はまるで、『何かを探しているようだった』。 ただの印象だが間違っていないと思う。 俺はのぞみの部屋とやらには興味はない。 望みがあれば自分の力で叶えるつもりだからな。 今までそうしてきたし、この先もそうだ。 だが――ニアとルードはどうだろう。 ルードの反応からして、彼らが秘宝に関わっているのは間違いない。 では何を探しているのだろう。 六年、いいやそれよりももっと前から。 彼らは放浪の旅を続けて何を求めているのだろう。 話を聞いてみたいと思った。 命の恩人であり、残り少ない同胞である彼らから。 そして、彼らの望みに俺が手を貸してやれるならそうしてやりたい。「ルード」 ニアが言う。どこか諦めたような、疲れたような声で。「話してみましょう。彼だって森の民なのだから」 ルードは答えない。沈黙は消極的な肯定だった。 俺は中堅クラスの宿を取った。 安宿じゃあ壁が薄くて隣の部屋に声が漏れるかもしれない。 かといって高級宿は旅人の風体の俺たちに不釣り合いだからな。 一番広い一室に集まる。 エリーゼには遠慮してもらった。「ごめん、エリーゼ。邪魔者扱いするつもりはないんだ。ただ、この話は聞かないほうがきみのためになる」「分かりました。ご主人様がそうおっしゃるなら、わたしは何も不満はありません」 エリーゼには隣室で待機してもらっている。 一応、周囲に人がいないか確認した。 俺だって腕利きの冒険者だ。気配があれば気づく。「で、だ」 ニアとルードを眺めやって俺は切り出した。「二人はエーテルライトを持っているのか?」 単刀直入だが、ここまで来てもったいぶっても仕
「ニア、ルード!」 俺が声を上げると彼らは振り向いた。不審そうな顔をしている。 思わず駆け寄ってルードの腕をつかむ。「俺だよ、忘れちまったか? 六年前に難破船から助けてもらった、ユウだ」 水色の髪の少女ニアが目を見開いた。「あのときの? 雰囲気が変わって分からなかったわ」「あの死にぞこないか。いい加減腕を離せ」 緑の髪の青年ルードが不機嫌に言う。「ご主人様。その人たちは?」 背後でエリーゼの声がする。しまった、彼女を置き去りにしていた。 俺はルードの腕を離してエリーゼに向き直った。「俺の命の恩人だよ。前に何度か話したことがあるだろ」「あぁ、難破船の」 エリーゼはうなずいてくれた。「で、なにか用か?」 ルードがぶっきらぼうに言う。「用ってわけじゃないが、六年ぶりに再会したんだ。どこかに腰を落ち着けて話をしていかないか?」 そう言ったが、二人の反応は鈍い。 俺は付け加えた。「なんでもおごるよ」 ルードがピクリと体を震わせた。「……そういうことなら、乗ってやろう。俺たちは昼飯を食いそこねた。どこかうまい飯屋に案内してくれ」「オッケー。じゃあ適当に見繕うよ。――エリーゼ、すまないけど付き合ってもらえるか?」「はい、もちろん」 というわけで、妙な再会を果たした俺たちは食堂を探して歩いていったのだった。 夕食どきには少し早かったが、さすがは人でにぎわう王都。 半端な時間でも営業している食堂を見つけて、俺たちは入った。「それじゃ再会を祝って。乾杯」 エールのジョッキをぶつけ合わせて、ごくごくと飲む。 ニアとルードは最初は無言がちだったが、これまでの話を少しずつ聞かせてくれた。「わたした
思いもよらぬところで砂糖を入手した俺たちだが、とりあえず甜菜の種を増やさないことにはどうしようもない。 今年の冬は今まで通りに過ごすことにした。 羊毛の染色剤の在庫がなくなりかけているので、今年も王都パルティアへ買い出しに行く。 年末にはまだ早い時期だったが、王都はにぎやかだ。「王都はいつも賑わっているなあ。というか、去年より人が多いんじゃないか?」 俺が言うと、いっしょに来てくれたエリーゼが教えてくれた。「今年の春、アレス帝国に王女様が輿入れしたでしょう。秋になってご懐妊が発表されたんです。それで、パルティア王国とアレス帝国の間で使節団が行き来して、お祝いしてるのです」「へぇ~」 結婚してすぐ懐妊か。 確かパルティアの王女と結婚したのは、アレス帝国の第三皇子とかだったと思う。皇太子じゃない。 つまりパルティアにとってもアレスにとっても跡継ぎではないのに、そんなにお祝いをするものなのか。 ちょっと不思議に思ったが、両国の王族の結婚は国同士のつながりを深める。 庶民の俺には伺いしれないものがあるんだろうな。「ほら、噂をすれば。あちらの大通りを帝国の使節団が通っていきますよ」 エリーゼが指さした方向に視線をやれば、人だかりの向こうに立派な馬車が連なっているのが見えた。 遠目にもパルティアとは少し違う雰囲気の馬車で、なるほど別の大陸の国らしい。 俺は人だかりをかき分けて見物のために前に出た。 馬車の窓にはカーテンがかかっていて、中は見えない。 けれど、ふと。 妙な光を見た――気がした。 カーテンの細い隙間から射抜くように視線が投げかけられたような。 禍々しいまでの赤い光に射抜かれたような。「ご主人様。どうしましたか?」「……いや。なんでもない」 エリーゼの声で我に返る。 気がつけば手のひらにじっとりと嫌な汗をかいていた。 ――なんだったんだ。 俺は肌身離さ
収穫祭が終わった秋の後半、俺は畑で腕を組んでいた。 小麦の収穫が終われば未収穫の作物は残り少ない。 その少ない作物の中に、例の赤カブが含まれている。 今年初めて育てた作物である。 で、赤カブも十分に育ったので引っこ抜いてみたのだが。 赤い色のカブにまじって明らかに白いカブがあった。 その数、およそ十本に一、二本の割合。「なんだろうな、これ。突然変異?」 赤カブはカブらしく丸っこい形。 白いほうはもう少し大根に近く、ごつごつとしながらも丸い形だった。「近縁種の種がまじっていたのではないか」 と、イザクが言った。「そうかも? まあ、原因は分からんよな。問題はこの白いほうが何なのか」 実は疑いがある。 これ、|甜菜《てんさい》じゃないか? 甜菜。別名をビーツ、砂糖大根。 砂糖の原料になる作物だ。 もしこれから砂糖が作れるとなれば、非常に大きな利益を産むだろう。 何しろパルティアで流通している甘味はハチミツかサトウキビの黒砂糖。 どちらも生産量は限られる。 特にサトウキビは温暖な気候でなければ育たないので、パルティアの中でも南のごく一部の地域、それに南国のササナでだけ栽培されている。 前世日本の記憶はほとんどが曖昧で、甜菜の形だってふんわりとしか覚えていない。 ましてや甜菜から砂糖を作る方法など知らない。 だが巨大な利益を目の前にしてみすみす逃すわけにはいかん。 けれども今年、こいつは花を咲かせなかった。つまり種が取れていない。 種が取れないと来年の栽培ができない。「なんで花が咲かなかったんだろう?」 俺の疑問にイザクが答える。「二年草なのだろう。一年目は花をつけず、二年目になると咲く」「ということは、このまま収穫せずに育て続ければいいのか」 何個かは砂糖抽出を試すために収穫するとして、残りはそのまま土に埋めておくことにした。 さ